あなたへ

 出会いの種類は様々ありますが、その9割は偶発的なものだと思っております。あなたがたまたま同じクラスになった彼とも、意図せず同じ職場になった彼女とも、パンを咥えて走る遅刻しそうな朝に曲がり角でぶつかった二人も、そう。
 当人の意思さえ介入できないまま、半ば強制的に、誰の采配かもわからぬまま突然訪れるその偶発的な出会いは些か強引に思えます。しかし、想像もし得なかったそれには同等の、もしくはそれ以上の可能性が孕まれていると、そう思うのです。
 運命の出会いなんてない。突然失礼、こちら持論です。出会った瞬間に全て決定付けられるものなどきっと存在しなくて、運命の出会いだった、と言える人との関係性は、自らが構築してきた軌跡の形だと、そういう意図の持論です。
 でも。出会いそのものは奇跡と呼んでもバチは当たらないかと。
 ドラマ「僕らは奇跡でできている」という作品に、我々は主題歌という形で携わる事ができました。そのおかげで新たな出会いa.k.a.奇跡が生まれる予感がしています。そもそも主題歌のお話を頂けたのも、出会えたから、顔と顔突き合わせて話す事ができたから、共感する事ができたから、その温かい軌跡の上で握手をする事ができたから。インディーズバンドの我々を、いわゆるゴールデンと言われる時間帯で起用するというのは発想は元来ぶっ飛んでおります。それなのに、気持ちだけで実現させてしまうこのドラマチームの意志と行動力には、心から脱帽させられました。大感謝です。そんな人と人、血の通った体温のあるこの機会に、あなたと出会えたならば大事にしたいと。運命という言葉で簡単に片付けられない様に自分たちで構築したいと、そう思いました。
 という事で、「僕らは奇跡でできている」と連動させて勝手に企画を考えました。このドラマを機に知ってくれたあなたに、そしてもちろん以前からから我々を知ってくれているあなたにも。我々がどんなバンドであるか知ってくれたらあなたにもっと近づけるんじゃアないかと、そう考えたわけでございます。題して。

 
『僕らは"軌跡"でできている』


 お、どうだ。ギリギリセーフか。怒られるか。どっちだ。
 すなわち毎週少しずつ、自己紹介よろしく、我々のこれまでを知ってくれたらなアと、そう思った次第。
 高校生の時分に結成した我々がどういった経緯でバンドを始める事になったのか、痛く苦すぎた初ライブ、確固たる自我が芽生えた某大会、若すぎたメジャーデビュー、弱すぎた結果のメジャー転落、借金して購入した機材車で回った四人だけのツアー、長かったアルバイト生活、まさかのタイミングでのメンバーの急病、大きくなっていく会場、辿り着いた日本武道館単独公演。
 14年目のインディーズバンド、SUPER BEAVER。紆余曲折、山あり谷あり、七転八倒の歩みを、我々の意志を、共有できたら最高に嬉しいし楽しいだろうなアと、そう思いました。
 奇跡の先にあるあなたとの軌跡を、と。楽しい予感のする方へ筆を取らせていただいた次第。
 どうぞひとつ、よろしくお願い致します。

SUPER BEAVERフロントマン、渋谷龍太より


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〜結成〜

 それは晴れていたような気もするし、曇っていたような気もする。雨だったのではないかと問われれば、そうだったかもしれないと、きっと答えるだろう。
 その日の朝食、ごはんをよそったお茶碗が真ん中からパカッと割れることもなければ、玄関で足を突っ込んだスニーカーの靴ひもがブツッと切れるといったような虫の知らせのようなこともなかった。
 即ち、いつもの、なんでもない一日だったとそう記憶している。何もないことが退屈であり、何もないことが平和だった、いつもの毎日の、その中の一日。

 定時に家を出た私は特別急ぐわけでもなく、山手線と東横線を乗り継ぎ、定時から少し遅れて学校に到着。一限目と二限目を家の布団から引きずってきた眠気に身を任せウトウトと過ごし、ようやく覚醒し始めた三限目から身を投じた机の下の文庫本の世界は、途切れることなく昼休みまで続いた。
 そのいつもの昼休みに、バンドやるんだけどちょっと歌ってみない?と突然声を掛けてきたのが、同じクラスの上杉研太であった。
「え、なんて?」
「バンドやるんだけど、ちょっと歌ってみない?」
 全く概要が読めない。確かに音楽は小さな頃から好きだった。家では幼い頃からディープパープルや、レッドツェッペリン、ブラックサバスが流れており、大体の曲のギターソロは鼻歌で再現出来た。音楽に雷的な衝撃を受けたのはロックと呼ばれる音楽ではなく、オフコースの絹の様な歌であった。なんだよこの優しい歌は!と小学生で雷に打たれた私は、中学生ではglobe とジャミロクワイにハマり、高校に入学してからは専ら日本のハードコアパンク、usパンク、と様々な音楽を貪欲に聴き漁っていたのだが、まさか自分がやる立場になるなんてことは、露ほども思っていなかった。
「ん、あアと」
 言い淀みながら、なんで俺なの?と首をかしげながら、上杉の真意を図ろうとした。そもそも上杉とは、同じクラスってだけで、普段一緒に遊んだり、テスト勉強したりするような仲ではなかった。朝挨拶したり、休み時間にちょっと喋ったり、帰るタイミングがたまたま合えばなんとなく一緒に帰ったりする程度の間柄であったから、解せないそれにかしげた首は一八〇度手前まで傾いていた。ほぼ上下逆さまの世界で、上杉からの次の言葉を待ったが、彼は飄々と淡々と、私に言った。
「どう?やる?」
 雑だネ! しかしながらこれ以上悩んだり、もじもじしたりするよりも、会話のテンポを鑑みるに、yes と答えた方が良いリズムだと考えた私は、文庫本の世界にスピンを噛ませ、やるウ、となんとなく言ってしまった。
 まア、つまるところ、これが始まり。まさかこの時の、ちょっと歌ってみないが、今現在に至るまで、すなわち約14年を指すものになるなんて考えてもみなかった。
 あっけなくもあり、単純でもあり、必要以上のドラマを孕んでいないそんな物事から、意外と大切なものって始まっている気がする。とりあえず、納得するより先に、会話のテンポを重視して手を伸ばした私に、この今がある。
 いつもの毎日の、その中の一日に、いつも通り昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 軽率な返事をした翌日、なんだか冷静になった私は、概要も何も知らぬままは流石にハイリスクであると思い、その昼休みに、詳しいことを上杉に訊いてみることにした。
 これから始動しようとしているそのバンドは、バンド名すら決まっておらず、私が加わることにより、メンバーがようやく揃ったところ。オンユアマークがコールされたあたりかな。
 驚くべきことにギターを担当するのは、一つ下の後輩らしい。同い年でもギターを弾ける奴はごまんといるのに、何故にわざわざ後輩なのだと尋ねれば、なにやら軽音部の中でも群を抜いてうまいらしい。自分で曲を作ったりもしているらしく、すげエんだ、と言う。ほうほう、そんな奴いるんだ、と頷く私に、今日の放課後紹介するよ、と上杉。キリの良いところで昼休み終了のチャイム。
「柳沢亮太といいます、よろしくお願いします」
 あア、言われりゃ見たことあるな。本を読んでいる間に迎えた放課後。各々が部活やアルバイト、渋谷の街や、自宅へ向かう波に飲まれぬ様に我々は廊下の端の冷水機の横。厳かに初めまして、の儀が執り行われている。主宰上杉の横に立つ、この柳沢某がギターを担当するようだ。ん、よろしくネ。
「これからバンドメンバーになるわけだから、先輩後輩っていうの、気にしないでいいよ」
 器の大きさを見せた上杉、その横でお腹が空いている私、目の前であたふたする柳沢某。
「そんな、いきなりは無理っすよ」
 結果的に全然無理ではなかった。現在、先輩後輩をたまに気にしてほしいと思う程に生意気である。

 お次はドラム。柳沢の幼馴染に良いドラム叩く奴がいるという。柳沢と出会ってから二日後か三日後、彼らの地元で、初めまして、の儀が再び執り行われた。
「やなぎの幼馴染です、藤原です」そう口にしたのは髭を蓄えたおじさんであった。「17歳です」
 おじさんは冗談を言っている様だ。私は気を使って軽く笑って見せたが、間が持たなかったので駅の近くのスタジオに入ってみることにした。
 年の功か、上手であった。
「幼稚園からの幼馴染なんですよ、こいつ」
 柳沢は藤原の演奏を見ながら冗談を言った。つまらなかったので無視をしたが、このおじさんがドラムをうまく叩けるということは間違いない。
「音、合せてみましょうか」
 誰が言ったか覚えてはいないが、初めて音を合わせた時の感動は覚えている。
 少し前にコールされたオンユアマークから、明確なスタートの合図は聞こえなかったが、我々は勝手に走り出していた。誰かが鳴らすスタートの合図は、自らが耳にした時には既にコンマ何秒か遅れているのだ。誰かに鳴らされる前に、勝手に走るに限る。

 こうして集まった四人である。なんとなく集まった四人。
 その四人がメンバーチェンジをすることなく現在も音楽を続けていることは言わば奇跡的なことなのだろう。ただこの奇跡は、四人だけではまるで成り立たたない類のもので、多くの温かい気持ちの上に成り立たせてもらっている。
 いつからをこのバンドの軌跡と呼んだらいいのか。もっともっと前、四人が出会う前からそれが始まっていることは間違いないのだが、とりあえず、四人が出会ったそこから、記していきたいとそう思った次第。

 ちなみにバンド名であるが、深い意味はない。深くはない意味ならある様な言い方をしてしまったが、深くない意味すらない。
 どういう経緯で残ったのかさえ曖昧な『SUPER BEAVER』と『画鋲』という最終選考に残った二択。かろうじて選ばれたのが『SUPER BEAVER』だったと、そんな感じ。
 今では気取ってなくて、なかなか気に入っているバンド名ではあるが、『画鋲』でも悪くなかった、と思う今日この頃。


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〜初ライブ〜

 他愛のない日常に、バンドをやるという刺激的なエッセンスを一滴加えまして、それを若さというまな板の上に乗せ、ラップを掛けた状態で幾晩か寝かせてみますと、あら不思議。元と然程変わりのない毎日の出来上がり。召し上がれ。
 慣れ、慢心はいつ何時でも。油断したとかそういう自負なんてなくたって関係なしにやってくる。やってくるというか、いつの間にかそこに在る。  日々の生活はかき混ぜなければ腐っちゃう糠床よろしく、何かの折に気に掛けたり、あるいは意識し直したりということが大切であり、すなわち、今日のこの場合「ライブをしてみましょう」と柳沢が言ったその一言が、SUPER BEAVERという名前の糠床をかき混ぜたことになる。
「糠床をかき混ぜたな、そういうことだな」
 はて? という顔で三人が私のことを見ている。気まずくなる前に柳沢が口を開いてくれた。
「友達に誘われたんです。企画するライブがあるんだけど出てみない? って。どうかな」
 敬語とそうでない言葉をうまく織り交ぜながら先輩との距離を差し測る柳沢がかわいい。柳沢の幼馴染と自称するおじさん、藤原”17才”広明さんとの接し方の参考にしてみようと思った。
 自由が丘の、今はもうなくなってしまった練習スタジオでの歴史的一幕。遂に初めてのステージ、私は本物のバンドマンになる。
「ロックンロール!」
 興奮が過ぎて思わず叫んだ私を、はて?という顔で三人が私のことを見ていた。こうして初ライブは決定した。

 初ライブ当日、渋谷駅。
 初陣は池袋のロサ会館。最寄りでない駅でわざわざ待ち合わせをして乗り込むは外回りの山手線、いざ。
 昼過ぎに人のまばらな車両の中、我々に向かって柳沢が努めて明るい声で言った。
「あのね、俺も知らなかったんだけど」
 その声色で、俺も知らなかったんだけど、から始まる話題は十中八九悪い話題だ。責任転嫁を得意とする人間が口にする常套句。痛いところを突かれない限り、しれエっと自分も被害を受けた側に回り込むことのできる妙技。
「あの、今日ね」
 私の嫌な予感が的中するまで、あと2秒。
「追悼ライブらしいです」
 我々4人の間にだけ、完璧な静寂が訪れた。
 思ったよりハードなのがきた。ストップしてしまった頭を力に任せてフル回転させ、一番初めに思い浮かんだ追悼の他に別のtsuitouはないか考えてみたが、一つもなかった。それを知ってどうなることでもないのだが、とりあえず、念の為に、訊いてみた。
「だ、誰の」
 柳沢は努めて先ほどより明るい声で応えた。ほぼ裏声だった。
「知らない人」
 池袋に到着するまでの間、誰一人として口を開かなかった。このまま池袋に着いてくれるな、という私の儚い願いは、当たり前のように叶わない。

 定時に到着、池袋駅。
 無言で歩いた我々は、とうとうライブハウスの看板の前まで来てしまった。
「大丈夫、大丈夫」
 どのつら下げてこのやろう、と裏声の柳沢を睨みつけると、顔面蒼白に笑顔が張り付いているなかなかやばい状態であったので責めなかった。
 仄暗く、カビ臭い恐怖につながる階段を我々は勇気だけを灯火に降りていった。防音仕様になっている重たい扉が見えた。大きく息を吸い込み、覚悟して扉を開けてみた。
 私が一番初めに思ったことは、どうすればこんなにもここが追悼ライブの会場です、という雰囲気を作れるのだろう、ということだった。追悼であるにしてもライブなのだから、明るくはないにしても暗すぎるということはないだろう、という淡い期待を抱いていなかったのか、と言われれば嘘になる。しかし、この雰囲気は想像を絶していた。
 フロアの数人はおしなべて下を向き、入ってきた我々には目もくれなかった。演奏すること、歌うことはもちろん、話をすることすら憚ってしまう空気であった。気まずさとか居心地の悪さとか、そんな生ぬるい言葉で言い表せるようならば、勇気や根性で打破できたであろうに。
 すると、その空気を前に茫然自失の我々に、一人が気が付いた。結果的に、フロアにいたその人が優しさから無理矢理に向けてくれた笑顔が、我々がギリギリ保ち続けていた心の芯を、修復の難しいしいところまでに粉砕する一撃になった。

 ワクワクドキドキの初ライブの今日は、ワクワクドキドキが不謹慎となる日であった。
 楽屋に荷物を置いた。上杉も藤原も虚空ばかり見ている。
「なア、そういえば企画に誘ってくれた友達はどの人なの?」
 私は柳沢に訊いてみた。相変わらず蒼白の顔面に張り付いた笑顔はただ怖かった。連想したのは日本人形だった。
「友達じゃなくて」
「ん?」
「友達の、友達なんです」
 他人じゃねエか、私は思った。
「他人じゃねエか」
 口にも出していた。

「オンタイムでスタートします」
 楽屋の扉が半分だけ開かれてスタッフさんの声だけが聞こえた。無情だ、あア無情。どんなに頑張っても時間には抗えない。一度立つと言ったステージには、立つのが男だ。しかし、初ライブでこんなのありかよ、と思ってもバチは当たるまいと思っていた。だからそう思いまくっていた。
 しかも出番はまさかのトップバッター。誰の追悼なのかもわかっていないこの日が初ライブのバンドには荷が重すぎる。追悼ライブの空気感がわからない、そもそも初めて立つステージなのでまずライブの空気感がわからない。
 落ち着く間もないまま開演時間。緩やかに落ちてゆくBGM。立たされたのは身に覚えのない窮地、いささか塩気の効きすぎた初陣に喉はカラカラだった。

 オンステージ、待ち受けていたのは静寂。この人たちは一体誰ですか、という視線がたっぷり注がれる。顎を撃ち抜かれるノックアウトパンチではない、ゆっくりめり込む万力の様なボディブロー。とりあえずマイクを握る。 「初めましてSUPER BEAVERと言います」
 待てど暮らせど鳴らない拍手。
「元気ですか」
 不謹慎極まりないことに気がつく。
「呼んでくれて、ありがとうございます」
 二つか三つ、待望の拍手が起こる。この時学んだことは、まばらな拍手は静寂よりダメージがでかいということだった。
「始めます」
 この一言が、情けないことにこの日の最後の記憶となった。酩酊していたわけでもあるまいに、どの様にして家に帰ったのかすら曖昧だ。バンドを始動させた少年たちにとって、それだけセンセーションな体験だったということであろう。

 当日のことをなに一つ覚えていないくせに、四人でオンステージした時のヒリヒリと痺れるような感じだけが身体に残っていて、二度とあんな経験はしたくないという思いにどうしてだか勝った。一人の人間がこのあと十年以上を費やすほど魅惑である。音楽をやる、バンドをやる楽しさはそう簡単に折れる類のものではないのだから至極当然の結果なのかもしれないが、当時は本当に不思議でならなかった。
 今に至るまで、オンステージのその数分間を語る上で、これに勝る過酷さは未だにない。それを一発目に経験できたで我々はおかげで幾ばくかタフになれたのかもしれない。
 ただこれはその数分間に限った話である。人生はもっと大きなうねりの中にあって、一時的な困難は恐るに足らないということを、我々は身をもってこのあと経験していく。
 酸いも甘いも知らぬ、まだ学生の時分の青すぎる一幕。


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~某大会~

 天を仰ぐと、悔し涙は頬を伝って口に入った。悔しい思いをしているのだ、なにも味まで塩っ辛い必要などないだろうに。甘ければいいのだ。この世のものとは思えない程に美味しかったり。そうすればバランスがとれる。
 でも、そういう訳にはいかないのは多分この先だってこんな時があるだろうから、二度は繰り返さない様にと。
 渋谷AXは優勝者を讃える拍手と、参加者を労う拍手に満ちている。
 ん、どうも塩っ辛過ぎる。

 ◇   ◇   ◇ 

 必要事項を記入する。
「SUPER BEAVER」
 vo. 渋谷龍太、
 gt. 柳沢亮太、
 ba. 上杉研太、
 dr. 藤原広明」
 楽曲名「ニセモノ」
 書き込み終わったそれを上から下までゆっくり眺めて、私の表情は満足で緩んだ。もっとも書き込んだのは柳沢であり、私はそれを早く早くと急かす大役を担っていただけであるが。
 衝撃とも言える初ライブから、一年と少し経っていた。柳沢と藤原は高校三年生になり、上杉と私は調理師の専門学校生になっていた。この時、一番楽しかったのは音楽であったが、私のなかで音楽が一番だったのかというとそうではなかった。普通というものすら定義できないくせして、普通とは逸脱したスペシャルになりたい、というアブストラクトな想いもあった私の中で、夢とか、現実とか、そういうものは別の部屋に音楽は住んでいましたとさ。
 この日、スタジオ練習を終えたバンドマンで賑わうロビーは、生産性のない話と建設的な話し合いで、相も変わらず飽和していた。
「リベンジだ」
 一枚の紙を何度も指差し息巻く私を、仕方ないなアという表情で柳沢、上杉、藤原が見ている。
 指差されたそれはエントリー用紙、十代を対象に開催される某大会に参加する為のものである。去年、闇雲に参加した同大会。我々は運と、勢いと、根拠のない自信で奇跡的に勝ち上がり、全国大会のステージに立った。
「私と上杉は来年はもう十代じゃないからね、ラストチャンス。二度目の正直」
 どうどう、と背中を撫でられ、立ち上がった勢いで倒れてしまった椅子を上杉に直してもらう。スタジオ代を綺麗に四人で割り勘して、それぞれの帰路につく。
 夜まであと少し。電車の車窓から見えオレンジ色の景色は、去年のことを思い出している自分には哀愁が強く滲んで見えた。「暖色のくせに」と独りごちた。
 楽器店予選、地方予選、地方大会、ようやくたどり着いたその最後の舞台。その全国大会で声高らかに読み上げられたのは我々とは別のバンド名だった。応援してくれた友達、それでも歓んでくれた両親、生まれて初めて立った大舞台。挫折らしい、初めての挫折。
 今年は、優勝したいな。うっかり一つ行き過ぎた駅に、オレンジ色が一際強く射していた。

 目の前の渋谷公会堂に一礼。あっという間に今年の全国大会の会場である。楽器店予選、地方予選、地方大会、中一行で中略できる程簡単なものではなかったし、それぞれにきちんとドラマもあったのだが、全てさらっていると、なかなかのボリュームになってしまうので涙の割愛。
 能動的に動くことを殆どしてこなかった自分が、一年かけて再び臨んだこの大会。たかが十代の大会と言われてしまえばそれまでだし、音楽に順位なんて、と根本的なことから言われてしまえばそれこそ元も子もないのだが。どんな結果であれ、結果が出る度に、思考し、俯瞰し、己を知り、結果が全てじゃないことと、結果が全てであることを学ぶことができたこの大会は、私にとって今でも大きな財産である。
 一年前の塩っ辛いあの味は、二度味わわない為の今日までの明確な指針となってくれた。甘かったり、美味しかったりしていたらやはり、こうはいかなかっただろう。
 睨むくらいに強く見つめる渋谷公会堂は、当時から流行り始めたネーミングライツによりC.C.レモンホールという名称に変わった結果、大きく威厳を欠いていたが、それでも数時間後にここにオンステージできるということは大変に名誉であった。興奮に鼻の穴を膨らませていると、私のポケットが振動した。携帯電話を開くと、画面には〈やまと〉と表示されていた。緑色の通話ボタンを押す。
「あいよ、どした」
「今日頑張れよ」
「お、わざわざありがと。会場わかる?」
「うん、もう着くよ。始まる前に龍太の顔見たいと思ってさ、今どこいんの?」
「渋谷公会堂を睨みつけてるよ」
「なんで?」
「涙の味がもしも甘かった場合のこと考えてたらさ、自ずと」
「え? なに? まアいいや、ちょっと待ってて」
「はいはい」
 携帯電話を閉じる。このパカンっていうときの言い知れぬ快感が、今となってな懐かしい。鳴らし分けた着信メロディ、グループで分けたメールボックス、電池パックカバーの裏に貼った彼女とのプリクラ。はい、脱線。
 やまとというのは、親友と呼べる数少ない地元の友達。彼は去年の全国大会の前夜「明日頑張れよと」という激励と、どら焼きを家まで届けてくれた。どうしてどら焼きなのかと訊くと、特別意味はなくコンビニにのレジ横にあったから、ということだった。
 渋谷公会堂に一礼する少し前、そんなことを思い出した私は験担ぎだと思ってコンビニに出向きどら焼きを購入していた。オンステージ直前に食べて気合いを注入するプランをひっそりと企てていたのだ。
「龍太」
 呼ばれて振り向くと、こちらに向かって歩いてくるやまとが見えた。
「わざわざサンキュー」
「会場でかいじゃん。今年は一番取ってこいよ」
「もちろん、今年こそ、ね。あ、去年さ、やまとどら焼きくれたじゃん?」
「あア、そうだ」やまとはヘラヘラ笑った。「レジ横の和菓子コーナーね。っていうかなんでコンビニのレジ横には和菓子何だろ」
「ん、なんでだろ。垂乳根と母の関係みたいなもんなんじゃん」
「は?」
「なんでもない。だからさっき験担ぎでどら焼き買ってきたんだよ」
 それから少しの時間、他愛もない話をした。開演の時間まであと少しだった。やまとは時間を見て言った。
「じゃア、会場入るわ」
「うん、またあとで。ありがとね」
 固い握手をしたあとで、何だか小っ恥ずかしくなり早足で楽屋へ向かった。
「おい」
 背中から聞こえたやまとの声に振り向くと、なにかが放物線を描いて飛んできた。反射的にキャッチする。
「お、ナイスキャッチ」
「当たり前だ、元ハンドボールキャプテンなめるなよ」
「龍太! 頑張れ!」
 大きく笑って、やまとが手を振った。入場口の人混みに、彼はあっという間に紛れた。私は、なんだよ、と一人こぼして手元を見た。
「あ」
 去年と同じどら焼きが私の手の中にあった。

「どうしたの」
「あ、藤原さん」
「俺年下だって。なんで泣いてるの」
「だって、やまとがまたどら焼きくれたんだもん」
「どういうこと」
「うるさい、じじい」
 楽屋は大部屋で、それぞれ出演者ごとにテーブルが割り振られていた。十代独特のピリピリした空気で満たされたこの部屋で、やまとに泣かされた私は浮いていたし、おじさんの藤原も浮いていた。
 この当時の、友達以外の年の近いやつら全員敵だ的な感覚は一体なんなのだろう。今思えばどうにも不器用で愛おしい感覚であるが、実は今でもほんの少し、男の子にはそんな部分が残っていたりする。女の子、覚えておいてね。
 間も無くスタートとなるギリギリのタイミング、緊張と敵視と興奮とでキャパオーバーのこの部屋に給食の時間を彷彿とさせる配膳台のようなものが入ってきた。ピラミッド状に、手のひらサイズの赤い箱が積まれている。配膳台を押してきたイベントスタッフさんが声を上げた。
「こちら、大会から皆さんに差し入れです。どうぞ」
 貰えるものは、なんだってもらう。いの一番に配膳台に向かい、小箱をいくつも抱え込むと、「お一人様、一つでお願いします」と叱られた。渋々一つだけで我慢、口を尖らせて自分たちのテーブルに戻る。上杉が言った。
「なにが入ってんの、それ」
「なんだろね、なんだと思う?」
 私が勿体振ると、藤原が箱を覗き込見ながら言った。
「早く開けてよ」
 私は藤原を睨んだ。
「もっとさ、イベント性を持たせようよ。ワクワクしたいと思わないの? ったく」
 藤原を叱りながらも内心ワクワクしながら箱に手をかける。なにが入っているのだろうか、浦島太郎の心境。そういや浦島太郎の教訓ってなんだろう。亀なんて助けるな、かな。どうでもいいことを考えながら、いざ。
「果たして!」
 箱を開けた。
 どら焼きが、入っていた。
「ぎゃーーーーーー」
 人生で叫ぶ程にビックリすることはそうそうない。目の前で、都合三つになったどら焼きを改めて見て、再び叫んだ私をスタッフが注意した。我々がこの大会で優勝する3時間前の話であり、どら焼きが私の好物になった決定的瞬間でもある。

 大会そのものがどうだったのか、その実しっかり覚えていない。それだけ夢中であり一生懸命だったのだ。
 人生で初めて、何かを成し遂げた、と思えた瞬間だった。
 自分が何かをやったその結果で、自分はもちろんのこと、自分のそばにいてくれる人が歓んでくれることはこんなにも嬉しいことなのか、と文部科学省から賞状(大会っぽい)を頂きながら思っていた。
 二十歳に満たない少年たちがこの時得た宝物は、賞状みたいに形のあるものではなくて、もっとあやふやな金ぴかの雲のようなものであった。人生の中で稀に得ることができるその雲みたいなものは、時に誰にも共感してもらえず、時に誰かに馬鹿にされ、時に誰かが青臭いと言って忌み嫌う類のものである。ただ、生きて行くという上で、自分の人生の上で、本来個人で完結する歓びを、個人では完結できない歓びに変えられた時の嬉しさを知った四人が鳴らしている音楽こそ、今のSUPER BEAVERである。
 なにも見えていない四人がなにか見たいと転がりだした、四人だけの、具体的な日にちは覚えていない大事な記念の日のお話。


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~初ツアー~

 乗り物酔いと私は、毛布とライナスのようにいつも一緒であった。滅法酔った。車、船はもちろんのこと、新幹線ですら大いに酔った。
 乗り物を使わないとどこにも出掛けられないという現実を受け入れたのが物心が付いた時分、すなわち物心がついた時からどこかに行くことを拒む子供であった。ずっと家に、ないし家の近くで生きていたかった子供がそのまま大きくなったのだ。大阪まで車で行きます、なんて耳にしたあかつきには、そりゃアもう卒倒ものであった。

 初めての流通盤。全国のレコード屋さんに我々のCDが並ぶことが決定したのは、二十歳そこいらだったかと。
 前記した通り、我々は大会に出場し大賞を頂くことができた。そこからは青田買いの、いわゆる”オトナ”の方々が観に来てくれるようになり、CDを出してみましょうと具体的なお話を生意気にも幾つか頂いていたわけだ。その中で我々が、それじゃア、と手を握ったのは某メジャーレーベルの方であった。
 ただ我々は自主製作の拙い盤は作ったことはあったが、お店にしっかりと置いていただけるようなCDを作ったことがなかった。なのでいきなりメジャーデビューではなく、まずは会社お抱えのもと、インディーズで全国流通盤を出してみましょうということになったのだった。
 もちろん飛び上がるほど嬉しい話であり、音楽家冥利につきるゼ、と思っていたのだが、この時の私は盤を出すということとツアーを回るということが、イコールで繋がっていなかった。盤を出すこととツアーはイコールで繋がらなかったが、ツアーと乗り物はイコールで繋がっていたため、ツアー回ります宣告を受けた時、私は足が震えるほどショックを受けたのであった。
 足が震えた理由はなにも乗り物酔いだけではなく、私が極度のホームシッカー(造語)であることも関係していた。林間学校を適当な理由で休み、中学校、高校の修学旅行もワクワクよりもおうちを離れることの不安が勝った私である、その片鱗が当時になっても根強く残っていたのは言うまでもない。
 宣告を受けた時私以外のメンバーはどうだったのかというと、柳沢は嬉々としており、上杉はやったりますかとドンと構え、藤原はおじさんであった。なんの不安もなさそうなメンバーを見て、こんな人たちをこの先うまくやれるだろうか、と逆に不安になったのを鮮明に覚えている。

 メンバーによる度重なるカウンセリングと、数日に渡る説得と励ましも虚しく、頑なに首を横に振り続ける私を無視してツアーは着々と準備されていく。初日がすでに翌日に迫ったよく晴れた日、私はメンバーに引き摺られるようにして事務所を訪れた。
 なぜ事務所に呼ばれたのか見当もつかなかった。健康診断の結果、血液から乗り物アレルギーと外泊アレルギーが強く出た為、ツアーを断念しなければならなくなったのかも、と期待してみたが、ここ最近健康診断を受けていなかったことにうっかり気が付いてしまって絶望した。出していただいたコーヒーにも全く手をつけず、突っ伏して現実逃避を始めた私の前に、その人は現れた。
「だいじょんだよ、そんあしんぱしなくってエ」
 顔を上げるとそこには、寝起きヘアーにメガネ、原色のTシャツ上に白いシャツを羽織り、ジーンズが太もも中腹あたりまでグデッとずり下がった男が立っていた。
 一旦困惑。メンバーと顔を見合わせ事態を確認。置かれている状況に対応出来ていないのは私だけではない模様。一度慎重に探りを入れる。
「あの」
「あっあっあっあっ」
「え」
「しーびゃ」
 愛嬌と、得体の知れぬ感じがうまく混ざり合っているようで全く同居できていないキャラクターのようなこの男がSUPER BEAVER に一番最初についてくれたマネージャーの郷野さんという男であった。今後かなり長い付き合いになる彼の発する言葉は、共に過ごしていくうちに徐々に理解ができるようになるのだが、初対面であった我々には「だいじょんだよ、そんあしんぱしなくってエ」が「大丈夫だよ、そんな心配しなくて」だったなんてわからなかったし、「しーびゃ」が私のことを指しているなんて微塵にも思わなかった。
「うわ、え、なに」
 急な落雷、洗面所で何かが落ちる音、不測の事態がもたらす恐怖。このキャラクターの様な男の出現も、それと同じだった。
 この後、それまでなにをしていたのか知らないが、ようやく面識のある事務所の方が登場し、目の前の郷野さんがこれから我々のマネージメントをしてくれるとの旨説明をしてくれた。要するに明日から始まるツアーも一緒ということになる。
 キャラクター性も、滑舌も、許容できる範囲は優にオーバーしていたが、とにかく我々は郷野さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「あっあっあっあっ」
「え、あ、はい」
 なんなのだろうこの人は。乗り物酔いの不安、外泊の不安、それを凌駕する極上の不安に襲われるとは。ただ今回の不安はメンバー四人に共通するものであった。
「いろいはしめって、たいんかもしーないけろ、あしたからよおしくね」
 前半部分はまるで理解できなかったが、最後はおそらく「明日からよろしくね」だったと思う。我々は「よろしくお願いします」と返した。
 丸腰で外国に放り込まれたら、おそらくきっと同じ気持ちになるのではないだろうか。もやもやする我々を尻目に、郷野さんは事務所の人と関係のない話しを始めた。
「あっあっあっあっ」
 ちなみにこれは、彼が楽しいときに立てる声である。笑っている、とも言う。

 あっという間に朝が来た。本日から始まるライブが20本ある初ツアー。今となっては当たり前以下の本数であるが、当時の我々にとってはかなりの数であった。
「んあ、ずいぶう、おおきあにもっだえ、あっあっあっあっ」
 集合場所で車を用意して待っていてくれた郷野さんが、私の荷物を見て何か言った。荷物に関して言われることと言ったらなんだろう。私は慎重に応えた。
「はい、新しいカバンです」
 郷野さんが眉と眉の間隔をぐっと狭めた。間違えたようだ。ワンモアトライ。
「何かと心配で、いろいろ詰めて来ちゃいました」
 郷野さんが頷いて、運転席の扉を開けたて乗り込んだ。私は小さくガッツポーズをした。
 乗り物に酔うならば見晴らしの良い助手席が一番だろうということになり、助手席に座らせてもらった。結果的に見晴らしは別段関係なく、ツアーの移動の中の全て、推理と推測を要する郷野さんとの会話に集中できたおかげで、生まれてこの方ずっと苦しめられていた乗り物酔いをいともたやすく克服することができたのだから郷野さんは凄い。

 そんなこんなで始まった初めてのツアー。我々はトラベリングバンドに、おっかなびっくり片足を突っ込めたわけである。期待と不安と郷野さんを乗せて、レンタカーSUPER BEAVER号は走り始めた。
         初めての土地と、初めての経験。大いなる刺激に満ちたツアーであった。そもそもライブ経験に乏しい我々が、未踏の土地の、当時はまだ名前も聞いたこともなかったライブハウスにオンステージするわけである。武者修行と言うには人、時間、金銭面、移動、全てにおいて恵まれ過ぎていた環境ではあったが、当時の我々にとってはそう言っても差し支えはない経験だった。  数年後、本当に4人だけでDIYでツアーをする時がやってくるのだが、その時になってみてこのツアーがいかに恵まれていたかを痛感するに至る。

 で、そんなこんなありまして。ツアーもいよいよ最終日。
「何飲んでんすか郷野さん」
「ふにゅーる」
「フルーニュでしょ、今流行ってるやつね、桃のやつだ?」
「こえ、おいいい」
「ヘエ、今度飲んでみます」
「んあ。あて、つアーもそーそんおしゃいだえ。はしめっのつアーおうだった?」
「そうですね。初めはどうなることかと思ったんですけど、凄く楽しかったです」
「そかア、しーびゃもすっかいのりももえーきになったえ」
「はい、お陰様でって感じです、ご心配お掛けしました」
 もう、郷野さんとの会話なら任せろ。機材を下ろし終えた青空駐車場で胸を張る。
 ツアー最後のステージを数時間後に控え、ホームシックになる暇など微塵もなかった日々がドラマのようによぎった途端、エモーショナルになった。一足早く溢れ出しそうになる達成感と一抹の寂しさに、なんとも形容しがたい感覚になった私は、一切憂鬱を含有しない健康的なため息を吐いた。  郷野さんを含むメンバーと築き上げた妙に擽ったい一体感の様なもののせいで、まだ帰りたくないなア、なんて気持ちになっていた。出発前の私には、にわかに信じ難い精神状態である。
 最後のステージも、ただ前のめりに。
 このツアーで得たものは何か。正直具体的に言えるものなんてほぼ無い。が、具体的に言えない類の幾つかは大事に持って帰った。久々に寝るうちの布団、誰にも取られぬ様に、それを抱いて寝た。

 眠たい目をこすり事務所。無事ツアー終わりまして翌日。
 扉が開いて入ってきたのは郷野さん、我々の「おはようございます」を無視してホワイトボードに一直線。黙々と何やら書きまくっている。
「郷野さん、字が汚いです」
「んあ」
「何書いてるんですか」
「つアーすけゆーる」
「ツアースケジュールね。誰のですか」
 ホワイトボードに40本のライブがずらっと書き出された。昨日まで回っていたツアーの倍の本数である、さぞ大変だろうなアと、フレッシュな経験な基づいて思っていた。書ききってご満悦のご様子の郷野さんに、再び訊ねた。
「ねエ、誰のツアースケジュールですか」
「きみたちの」
 郷野さんの冗談はあまり面白くない、というのも一緒にツアーを回って学んだことの一つだ。
「はいはい」
「あっあっあっあっ」笑うだけ笑って黙ってしまった郷野さんは、その次の言葉を待つ我々に気がついて言った。「きみたちのらよ」
「何言ってんすか? だってこれ来月からのスケジュールじゃないですか」 「うん」
 それっきり黙ってしまった郷野さんのその次を待ったが、郷野さんは黙ったままだった。
「マジで?」
「んあ、まじえ」
 初のツアーを無事に終えたばかりの我々は、こうして間髪入れずに次のツアーを回ることになった。
「あたあしいつアーも、よおしくね」
 嬉しそうにしたり、ドンと構えたり、おじさんだったり、卒倒したりする四人を郷野さんは見ていた。
「あっあっあっあっ」



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~メジャー~

 その、つまり何から話したらよいのか。なるたけ卑屈にならぬ様にと考えるも、どこかしらうまく消化しきれぬところがあるから、なんだか自分でも、アララとなるところも正直ある。けれど、取り繕っても仕方がないので、その点も含めてこれが全て、だ。
 こんなに予防線を張って、尚且つ若干差別化させて今から話そうとしているのは、我々がメジャーに在籍していた時のお話。避けて通れるものならば、避けて通りたい話ではあるけれど、我々のスタンスや意志に大きく関わってくる話であるからして、避けて通ったりしたらいけないと気がしたので。
 今にしっかり繋がっていることを切に実感し続けているからこそ。
 我々の音楽に触れてくれたあなたに、そしてその時分携わってくれた、やっぱり未だに好きになれないオトナにも最大級の感謝を込めて。

 ちと、長くなるよ。
 二十歳という年齢は特別である。何がどう変わるという訳ではないのだがしかし、”にじゅっさい”と書いて”はたち”と読ませるなんざやはり只事ではないのだ。子供である自分をまだ守りたい自分と、さっさと捨ててしまいたい自分が遠巻きに睨み合っていた。
 夢が、夢として、磨かずともピカピカしていたから、やはりメジャーレーベルの方からお話を頂いた時は、驚いたなんて言葉では片付かない程に驚いた。大人の階段を上る為の足掛かりを見つけたと同時に、人生の安定も確定したと思った。今でこそメジャーとインディーズの区別はつきづらいものであるが、当時の私にとって、「メジャーデビュー=売れる」という公式は、反転させた「売れる=メジャーデビュー」という公式でもあったからである。
 音楽が好き、というただそれだけの感情は輝かしいものであり、楽しい、という感情のみで突き動かされるそれは、柵しがらみや時間、そして生活に晒されて風化することなく、真っさらでツルツルしている。雑多な負の感情などは簡単に跳ね返す、希望と、充足感と、自己顕示と、ナルシズムみたいなものでしっかり成り立っていた。そこに曲がりなりにも意志が介入してくれば、貫き通したい芯が少しでもあれば、その後もきっとその真っさらなツルツルを大切に守っていけたんだろう。
 しかし、当時の私には、意志と芯が欠けていた。大会で優勝したり、その後すぐに下北沢251をワンマンで売り切ったり、きっとこのままやっていけるのではないか、とそういうふわふわした実感しかなかった。もちろん向上心だってあったし、感謝だってしていた。ただ、やっぱり全然足りていなかったんだと思う。
 今を、輝かしい記憶としてそのままパッケージし、何年か経った後、引っ張り出して眺めて楽しんだり出来るはずだったのに、それをしたくないと思っていた。続けたいって、稚拙ながら思い始めていた、その矢先。調理師専門学校と、高校をそれぞれ卒業した我々が頂いたお話が、メジャーデビューを前提に活動してみよう(先週参照)、というお話だった。
 すげエな、やったな。明日はホームランだ。というか明日からずっとホームラン。
 話し合いというか、打ち合わせというか、親睦会というか。とりあえずいわゆるオトナと呼ばれる方に呼ばれて、正式に、初めまして、をした。
 その時話された内容はよく覚えていないし、よく理解もしていなかったと思う。まア知らぬ世界の存じ上げない様々なお話を、我々はなんとなく頷いたり、いいタイミングで笑ったりしながら聞いていた。今後の話を幾つかして、とりあえず流通をかけたインディーズ盤を作ってみましょう、という、はじめの一歩がそんな中で決定したわけだ。
 ん。とりあえず、頷くこと。真意、意志、意思そういった類の戦える武器がないまま、へらへら受け入れてしまうことが、一番危険なことだなんて、この当時は思いもしなかった。
 オトナと、同意義である社会とか世間ってのを少なからず舐めてたんだと思う。当時我々が見る世間は、現実味を伴わない現実で、映画や本と、大きく変わりはなかったのだ。
 恵まれすぎた環境に置かれていることを当時は気づけなかったし、考えようともしなかったのは、やはりそれが当然だとどこかで思ってしまっていたからである。言い訳にもならないが、なにせそれが初めて飛び込んだ社会であり、世界の一部にようやくなれた様な自立感を味わっていたからだと思う。一端の、大人を気取っていたわけだ。
 CDをリリースしてからというもの、行く先々、誰と会話をするにも、誰と挨拶をするにも、傍らには我々を護るようにオトナがいた。何を喋るにもオトナを一旦中継してからようやく言葉になり、何だか通訳を介している様だった。一挙手一投足の全てが一度フィルターで濾されてから相手に届いたし、相手から発信されるそれも、同じだった。
 人と面と向かって対峙するにあたり、雑味や灰汁や、嘘や世事からでるバリの様なものだって、個人を象徴するファクターである。人と目を見て話すこと、対象の相手と共にしている空気を大切にすること、掬いきれなかった残滓に手を伸ばして触れる勇気や優しさ、はたまた強引さ。それらを経験できなかった、しようとしなかった我々は、滅菌された完璧の清潔のなかで息をしていて、要は満足に風邪すら引いたことがなかったのである。
 鉄壁の中で健康でいる、すなわち究極の不健康状態。
 で、外界のいい菌も悪い菌も身体に取り込んだことのないまま我々はメジャーデビューをすることになる。

 祝メジャーデビュー。すれ違う人みんながお赤飯を炊いてくれる為、いい加減白いご飯が食べたいな、なんて言ったか言わなかったか。「平均年齢二十歳」なんて触れ込みで世にポっとでた。鳴物入りでデビューです、ドンチキドンチキ。
 一枚目のシングルには、いきなりアニメのタイアップがついた。毎週、決まった曜日の夕刻に、テレビから我々の歌が流れる。
 あれれ、でもなんでしょうねドンチキドンチキ。妙な具合だドンチキドンチキ。このドンチキ鳴らしてんのはドンチキドンチキ。
 一体、どこのどなたでしょうか。

 嬉しかったのは間違いないし、友達に返したありがとうも嘘じゃない。当時でしか伝えられない思いは、拙いながらに間違いなく込めていたし、音楽にみる輝きだって間違いなくあった。
 ただ、圧倒的に現実味が欠けていた。スタジオにたくさん入って挑んだ初ライブの衝撃や、我々で決意して出場した大会などで得たあの感覚がどこを探してもなかった。階段を登ったのか、エスカレーターを使ったのか、エレベーターで上がったのか、今いるこの場所にどうやってきたのかがわからない。応援してくれたり、歓んでくれるみんなが見ているものの経緯を、当人が説明できない不自然な状況。
 そんな状況でテレビから聞こえる自分の声を聴いた。今現在の私が一番嫌いな味気ない感覚を覚えてしまった。
「まア、こんなもんか」で、ある。

 現状を把握、理解出来ないまま、ただ運ばれるように時間が流れていった。
 わからなかった、知らなかった、は行動をしなかった自分たちに言えたことではない。嫌ならば嫌と、確固たる意志をぶつけなかったからディスカッションもできなかったし、話し合う振りをして決定されてしまう事態に、苦笑いしか浮かべることしかしなかった。
 これをやってみたら?が、これをやりなさい、になり、これをやれ、になる。
 ん?変だぞこれは。気がついた時には引くに引けなくなっていた。

 大いなる葛藤と、不休の生活をこなしながら(こなす、という言葉はまさしく)、シングルを三枚リリースした。
 もはやこの時はオトナを満足させることが第一になっていた。まずオトナを頷かせなければ先に進めないというところからスタートして、その、まず、で転ばされまくった結果、そこを突破することこそが、もはやゴールになってしまっていた。本末転倒甚だしいね。
 やっとの思いで作り上げたものを、意図も言えずに巨大なハンマーで片っ端からぶっ壊されることに慣れなければならなかった我々に、個性とか意志とか、そういったものはあまり必要とされなくなっていた。自分が何をしているのかすら判断がつかなくなり、万年混乱状態の我々は何をしても怒られていた。常に怯えていたし、行動に移す度胸などないくせに支配からエスケープする術をいつも考えていた。
 どうせ何をしたって、という思いがあって、スタジオには行きたくなかった。それでもスタジオには行かなければならないから、そういう時は意識を遥か彼方において、幾度となくやってくる嵐を無感覚でやり過ごす様にしていた。
 何に対しても上の空の私に「なんかあったの?」って心配してくれる友達、父ちゃん、母ちゃんに、「何もないよ」って嘘をつくのがなんだか、ん、つらかった。

 そして初のフルアルバム。
 製作中のスタジオ、ソファに浅く腰掛けた私は全てが麻痺していた。お麩、みたいだった。
 クリエイティブ云々、それとはあまりにもかけ離れ過ぎていた環境だったし、五分に一度のペースでオトナから浴びせられる罵詈雑言を受け止めるには、感情とかそういった類のものは不要であったからお麩。
 理想とか希望、特になし。あるのは早く帰りたいという気持ち、以上。  今から完成間近の曲をみんなで一度聴くらしい。遠くの国で、遥か昔に起こった出来事のように現実味がなかった。
 音が、流れる。
 不自然だと、感じた。様々なものがフラッシュバックして、いろんなものと結びついてしまった時、何かのタガがはずれた。要するにプッツンだ。
 音楽、友達、家族、人生、何より我々の歌を聴いてくれている人。そして紛れもなく自分自身に嘘をついちゃいけないと思った。
 こうやって今まで作り上げてきたもの、世の中に放たれてしまったものは紛れもなく自分自身、そしてSUPER BEAVERだと思っている。どれも嘘じゃない。しかしながら、これ以上はそう言いきれなくなると思った。
 だから。プッツンしてブチ切れて全てを投げ飛ばして暴れまくって……ではなく、情けないことにそれすらもできない程に憔悴していたお麩は、残された力を振り絞り、不本意ながら静かに嘔吐し、座っていた椅子からパタンと落ちたのであった。
 救急車に初めて主役として乗った。
 病院に到着。ぼうっと思っていた。楽しかったんだけど、徐々になんだか辛くなってきちゃったよなア。初めは違ったんだけど徐々に。メンバー同士大笑いし合えるバンドだったのに、いつのまにか柳沢と上杉と藤原と最近会話らしい会話してないし。みんなそれぞれに辛い思いをしてただろうに、情けないかなフロントマンである私が最初にダメになっちゃったよ。いろんな人を失望させたり怒らせちゃったりする結果になるだろうけど、もう頑張れそうにないや。
 知らせを受けた母ちゃん到着。
「どしたの、あんた」
 心配そうにする母ちゃん見たら、うっかり目から水出た。

 かっこ悪い自分、情けない現状、少なからずあった自己憐憫。どうしようもない自分は、三日間の検査入院をお医者さんから告げられ、やっと休める、と心の底から安堵した。
 久々によく眠った朝、枕元にいたのはマネージャーの郷野さん。
「おあよう」
 郷野さんは私が目を覚ます随分前からここに居てくれたのだ。起きた時郷野さんがそこにいてくれたことに、物凄く救われたのを覚えている。
「しーびゃ、だいじょんか?」
 心配してくれる郷野さんの顔を見て、うっかり本音が飛び出した。
「ダメです」うっかり言ってしまったら止まらなくなった。「あの、郷野さん、やっぱり」
 郷野さんは、多分わかってたんだと思うけれど私が言うのを待ってくれた。言い淀む私の背を押すように、どしたー?と促してくれてようやく言えた。
「音楽やめます、すみません」
 あっけないけどこれ以上もこれ以下もなかった。考える時間を下さいでもないし、休ませてくださいでもないし、バンドやめます、でもない。音楽やめます、なのだ。
「だよね」
 ここまで我々を何度も励ましながらお世話をしてくれた郷野さんは、引きとめたり怒ったりしなかった。ただ頷くその姿を見て、申し訳なかったし、悔しかった。でもようやく言えた事に安堵する情けない自分がいた事を、私は生涯忘れない。

 三日後よろよろ退院した。
 休めただろうから、明日からまたスタジオ来い、というオトナからの留守電を無視して私は事務所やらお世話になった人々に独断で辞める旨を伝えに行った。幾つかは郷野さんに立ち会ってもらって、会える人にあらかた会った。どこに行っても、誰からも引き止められなかったのは、現場が壮絶であったことをみんな知っていたからだと思うし、このボーカルがもう使い物にならないって、悟ったからだと思う。
 挨拶回りがひと段落して、ぼうっと。使命的に動きまくった私に郷野さんは言った。
「いちばんだいじなこと、てゃんとしなくちゃ、だめらよ」
「え。なんですか」
「しーびゃ、めんばーとはなさなきゃ。よにんではじめたんでしょ?」  まア、これを言われた時の背徳感は過去最高のものだった。そんな大事なことすら頭から抜けてしまう程に利己的だったことを本当に恥ずかしく思った。使い物にならなくなってしまった自分がというよりも、まずメンバーに筋を通さなかった自分が本当に情けなかった。
 あア道理で。こんな事態になる訳だ。こんないちばん大事なことが欠落するような私が、音楽だなんだで悩むのはおこがましいことだったと、こんな時にならねば自覚出来ないっていう事実には頭を殴られた思いだった。
 柳沢に、上杉に、藤原に、心から謝りたいと思った。郷野さんに頭を下げ、郷野さん立ち会いのもと、場を作ってもらった。

 数日後、郷野さんがメンバーに声を掛けてくれて、ようやくメンバーと対峙した。
 椅子から落ちて以来会ってなかったメンバーと久びさの再会。正直なんだか全員気まずそうだった。
 でも今日は核心を話すためにここにきている、集まってもらっている。バンドをやめるという私の意志は、どうしたって四人の結果になる。こんな大事な場まで人に用意してもらったのだ、せめて、ここに至る理由を包み隠さず話すのが筋というものであろう。
 だから覚悟して話した。初めはこう探り探りぽつぽつと。暗闇に目が慣れるまで半歩ずつ、本心という手がかりだけを頼りに周囲を確認しながらちょっとずつ。納得するかしないかのその前に、理解してもらう必要がある。どれくらい時間を要したかは定かではないが、段々に慣れてきて自らの話に、焦点が合い始める。言いたくないなアと思っていたことも話す。言ったら弱いって思われるから言いたくないなアと思ってたことをも話す。すると、それに対して柳沢が別のベクトルで話す、上杉が違う視点で話す、藤原がもう一つの切り口で話す。各々がおしまいを意識していた事実、限界を感じていた理由を話し始める。
 バラバラの視点が一旦同じところを向く、互いが持ち合わせなかったピースを持ち寄っただけだけれど同じところを見て話が出来たのは本当に久々だった。終わりを議題に持ち出したこの話し合いで、”四人のバンド”ってことをそれぞれが思い出していたんだと思う。
 そして、なんとなく気がつき始める。それぞれに。徐々に。
 四人は、要するにただ負けたのだ。オトナというものと面と向かって戦うことが出来なかったのだ。弱かったから勝てなかった。ただそれに尽きる。身も心も不十分だった、と。参りました!と、ただそれだけ。
 四人の意志を持ち寄って戦えただろうか。やれることはやったのだと、胸を張れるだろうか。戦い抜いたと、何年後かに笑って話せるだろうか。
 もう一度好きにやるべきだろう、好きだったあの音楽をやるべきだ。何度躓いて転ぶ様な困難な道であったとしても、心のそこから笑えなければ結局意味がない。
 したらば、我々が取るべき処置は一つ。
 逃げないために、逃げるのだ。
 現状からのエスケープ。今に見てろよ、の捨て台詞を残して、尻尾を巻いておめおめと逃げるのだ。逃げおおせて、悔しがる。ただそのままでは絶対に終わらせない。逃げることはカッコ良くないことと知っているから、カッコ悪いままで終わらせないように、この後どれだけ時間がかかったとしても、その過去は自分たちが未来で回収する。
 結論。
 もう一度やりましょう、四人で。
 発起。さながらバンドやろうゼの心境。弱っていたけれどこの時の四人はとても強かった。自分たちが前を向いて、自分たちが足を動かさなければ前には進めないという当たり前なことを意識した。どうせやってくる明日だ、誰かに迎えてもらうより、自ら迎えに行こうぜ。
 再び団結しつつある我々を郷野さんは何も言わずに見守ってくれていた。





 数日後、メジャーをクビチョンパになる覚悟で、もう今の状況ではやって行きたくありません、という旨をオトナにしっかり伝えた。
 伝えた、なんて然も自らが先陣を切って、みたいに綴っているが、入退院、勝手な挨拶、そしてメンバーに想いを伝えた先日の話し合いでお麩の燃えカスみたいになった私に代わって、私以外のメンバーが先陣を切ってくれた訳である。
 幾多の場面で、驚いたことにその殆どで、謝罪の言葉と激励を頂戴するに至った。
 若輩の身勝手なわけであり、その場ですぐにおしまいかと思っていたのだが、本当にありがたいことに、チームを再編した上で、自分たちの作ってみたいものを最後に作ってごらん、と恩恵を頂けた。そして生まれたのが我々のセルフタイトルを付けた『SUPER BEAVER』である。新たなチームは我々の意志、意見を汲んでくれた上で本当のディスカッションをしてくれた。ここから始めるゼロ地点として、『SUPER BEAVER』という盤を作れたということは、メジャーに在籍していた我々の大きな誇りである。

 円満退社というか、ポジティブな方向を向いたままでメジャーとお別れさせて頂くことが出来た我々は、実質、四人になった。大元の形になったわけだ。
 「さて、と。どうしましょうか」
 その言葉に悲観は一切なかった。開放感に己を蝕まれず、地に足をつけて今まで出来なかったことをたくさんしに行こう。まずは挨拶回り、今までまともに挨拶出来なかったライブハウスに自分たちの足で挨拶をしにいこう。ちゃんと話せなかったバンドにもう一度対バンをお願いしてみよう。そして今まで禁止されていた打ち上げには全部参加するのだ。ありがとうも、ごめんなさいも、言いたい人がたくさんいる。思っていることを日々伝えられるバンドでいなけりゃな。そして、差し伸べてもらったたくさんの手を、この先で引っ張れるような人間なろう。
 そこから地続きにある今に、現在のSUPER BEAVER があると、そう感じている。

 本当に表面だけ、語らせてもらいたいことの表面だけ撫でさせてもらったような、そんな感じ。
 無駄かもしれないと思った過去に、意味を、意義を、つけられるのは未来の、そして今の自分だけ。だから、その過去があったからこそ、あなたの前に存在できる今にこんな形で綴らせて頂いた次第。ステージの歌が、音が全て。背景、歴史は音楽にとって付加価値かもしれない。ただ、どうして歌うのか、どうして伝えたいのか、どうして鳴らすのか、知ってもらえたらもっと共に楽しめるかもしれないと思ったのだ。
 ようやくのゼロ地点。今週は、ここから始まったと言っても過言ではない原点のお話。四人が大人になろうとする過程で出会ったオトナと、それと戦うにはちと早すぎた四人が逃げない為に逃げるという選択に至ったその過程と結果のお話でした。
 あの時見ていた漠然とした未来は、今はっきりと見える形でこうして続いているし、お話は次週に続く。



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~アルバイト~

 はてさて、メジャーレーベルを離れた我々は、本来自分たちが見ていた音楽というものを今一度鳴らすべく、リハビリとも言える様な日々をかなり前向きに過ごしていた。
 しかしながら。前進する日々の中で何かが足りないという感情も生まれていた。今一度と四人で立ち上がったにも拘わらず、どこかで満たされていない。
 はっ、そうか。その正体を幾日も探り続けた結果、満たされていないのは腹と財布だということが判明した。そりゃそうだ。メジャーを離れた今は、お給料を払ってくれるところから離れた今なのだ。
 生きることとお金は、どんな角度から見てもしっかり繋がっており、夢だけじゃお腹はいっぱいにならねエんだよ、という夢のないこのセリフは、それが夢であるうちはお腹はいっぱいにならない、という意味でもあるようだ。
 食い扶持はどんな形であれ自らが確保しなければならない。アルバイトを探さなければ、と私に啓示が降りた時には既に、他の三人は面接をパスしていた。流石だ。

 柳沢はハンバーガー屋。
 上杉はラーメン屋。
 藤原は柳沢とは違うハンバーガー屋。
 飲食業のスリーカード。私も飲食業に就けばフォーカードだ。飲食に決めようと、うつ伏せで頬杖を付いて足をパタパタさせながら求人雑誌のページを捲っていくと、目に付く飲食店が三つもあった。早速電話をかけてみようかと携帯電話を手に取ったが、もう随分と遅い時間であることにハッとして、明日改めることにした。
 満たされない腹と財布からおさらば出来る、そう思ってその日は豪快に気持ち良く眠った。
 お金のプールで泳ぐ夢を見た。クロールだった。

 翌日、お店がオープンする前の余裕のありそうな時間を見計らって電話を掛けた。三つとも電話口で断られた。その日は泣くことに時間を割いた。
 次の朝、もう一度求人雑誌を、今度は椅子にしっかり腰掛け背筋を伸ばして捲った。なんとか面接までこぎ着けた四件目の居酒屋さんが私を採用してくれた。
 こうしてメンバー全員のアルバイトが決まった。このタイミングで私は、電気代の払い方、柔軟剤の使い方さえわからぬ23歳の春に心機一転一人暮らし開始。湧いてくるものでは決してないお金のありがたみ、真っ暗な部屋に帰るという寂しさ、ただいまとセットだったおかえりがない侘しさ、それらを始まりの予感に底を突き上げるようにして生まれた高揚感で塗りつぶしながら暮らし始めた。

 水物の生業に希望を見出してしまった人間に共通して言えることであるが、音楽で食えない以上、音楽を生活の中心に置いていたとしても他の時間はお金を稼げることに費やさなければならない。しかしその暮らしの中でも、以前より地に足をつけて自分たちの音楽をやっているという感覚は大きく、苦しいとか、しんどいとかは然程思わなかった。長く続くアルバイト生活はこの後、真綿で首を絞めるがごとく我々を苦しめて行くのだが、まだまだ先の話である。割いている時間と、割きたい時間との狭間で、打開できない現状にさもしくなっていく心。むずむずする反骨心や、耐久をバネにした爆発など、いろいろあるがこれはまた別の機会にしよう。
 兎にも角にも、この当時の我々はいろんなものを跳ねっ返すくらいの希望でギラギラに輝いていた。DIY精神に則り、やりたいことを、やりたいようにやった。無茶苦茶をしたわけではなく、顔を合わせること、話をすること、触れることに貪欲になって前のめりにやったわけだ。誰かが用意した地盤の上で交わるのではなく、自分も相手も地盤を持ち寄ったその上で交わるということ、少し大袈裟かもしれないがこれのおかげで、人と一緒にいる意味とか、人間としての徳みたいなものを学んでいったと思う。

 素行が悪いわけでもなんでもないのに、ドラムの藤原がバイト先をクビになったり、バイト先を潰したりと、随分とかわいそうなエピソードも多々あるのだが、そんなことに時間を割いている場合ではないので大きく割愛。藤原、割愛。
 遠征で一週間以上空けることも珍しくない状況で、随分と滅茶苦茶なシフトを提出する我々のことを優しく見守ってくれる良いバイト先には、メンバーそれぞれ大感謝だ。
 私においては、接客中に居眠りをしたこともあれば、ドリンクカウンターの一升瓶を何本もまとめて割ったこともある。お客さんの膝に料理をこぼし、度々隠れてオレンジジュースを飲んでいた私をよくクビにしなかったと思う。
 バイト先の仲間とは今でも飲みに行ったり、ご飯を食べにいったりする。矢鱈滅多ら友達を作る必要もないし、仲間なんて作ろうと思って作れる類のものではない。誰彼構わずマイメンだとか兄弟だとかいう人を私は信用していないし、そんな簡単じゃないことを承知であるからこそ、その都度奇跡的にできた友達や仲間は大切にしたいと思っている。

 至極ピュアに生き、地に足がつき始めた頃のお話。


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~メジャーを経験した我々、地に足つけてインディーズ活動開始~

 年間一〇〇本のライブ出来たらライブバンドかな、なんて単純な理由から、誘って頂いたライブはよっぽどのことがなければ断らないスタンスでライブをした。
 その分アルバイトに入れずお金にはなかなか苦労もしたが、駐車場解散駐車場集合という、経済状況によって各々が食事宿泊などをそれぞれ決める独自のルールも生まれた。即ち、移動してきたその先で車を停める場所が決まったならば、翌日の集合時間だけを決め、あとは三々五々街に散っていくのだ。お金がなければないなりに、切り詰める部分と譲れない部分はそれぞれに違う。長くチームで動く為には個人の意思を尊重できる部分は、別行動になったとしても設けるべきであると私は考える。車で寝ることになってもまともなものが食べたいのか、食事を控えても風呂に浸かりたいのか、はたまた食事を控えても車で寝ることしか選べない日もあったり。
 ただしどれだけ苦しくても、毎月一万円はバンド貯金箱に納めなければならないのは決まりであった。用途としては、SUPER BEAVER号の借金の返済。スタジオ代、交通費、諸々。ローンを組んで買ったSUPER BEAVER号は日産のバネットというハイエースの幼少期みたいな様子の車。もともとは畳屋さんがお仕事で乗り回していたそうな。スタジオ代は毎度割り勘しているとなかなかの手間なので出処を一括に、とそういうこと。交通費も同じ理由だ。なんとなく予想はつくと思うがメンバー4人かけることの一万円だ。四万では到底賄えない為に、臨時徴収が常であった。
 この時からである。マネージャーも事務所もお金もない四人だけの我々には徐々に仲間が出来始めた。何かを知っていること、何かを経験することは別段偉いことではない。ただ足は地に、しっかりつけていないといけないのだと、そう痛感した。

 二年に満たないくらいの間、本当にライブしかしなかった。四人でライブを決めて、四人で出向き、四人で経験した。
 その中で新しい気持ちが生まれれば、新しい曲が生まれる。ぼちぼち盤を出したいね、と必然的にそういうことになった。それじゃア、ということで我々は新しい音源を出すことに決めたのだ。
 決めたのだが。
 しかし。
 CDってどうやって作んの?に行き着きました。

 行き着いた思考の先では後光が射す尊いお方が鎮座しておられました。郷野様です(前々期参照)。
 柳沢が電話をかけ根掘り葉掘り聞いてくれた。根掘り葉掘り聞いたところで一本の電話で済む簡単な話ではない。レコーディング、プレス、流通、アートワーク、費用、スケジューリング、やることは山ほどあった。一枚のCDを作るのに、これほどまで労力を要するとは。何も知らない自分たちの無知を実感するに至る。
 まアしかしここまでやるなら、ということで自主レーベル発足。”I ×L ×P × RECORDS”ここに設立。といっても事務所を借りてとかそういうことではない、あくまでも名義ね。でも大事なこと。

 ということで、まずはレコーディング。レコーディングエンジニアは我々の流通盤一発目の時分にはアシスタントエンジニアとしてそこにいてくれた兼重さんにお願いした。結果的に兼重さんには現時点(僕らは奇跡でできている主題歌”予感”!!!!)の作品全てのレコーディングエンジニアをやってもらっている。我々の作品作りにおいてなくてはならない人だ。今はすっかり売れっ子で忙しいらしいが、郷野さんほどのキャラクターがないので人間説明は割愛。強いてあげるなら、声が高い。いつもニューバランスを履いている。我々のことを愛してくれている。そんなところか。

 メジャーレーベル在籍時は一曲に何日もかけてレコーディングをした。しかし今回組んだ日程は一日に3曲録るスケジューリングであった。スタジオを借りるためのお金のことを考えるとこれでもギリギリであった。
 レコーディングのやり方はバンドそれぞれあると思うが、概ねまずリズム隊のレコーディング、その後でギターを録って、その後歌を録って、いろいろ重ねて録っていくという、幾つもの工程を経て完成させていくものだ。しかしそれをやっていると一日に3曲は到底不可能である。つまり我々には一発録りという一択しか残されていなかった。全部をせーのっで録る、ということだ。なかなかのプレッシャーで培われた我々の集中力は今もしっかり活かされていて、当時より幾ばくか余裕ができた今も、ほぼ同じようなスケジューリングでやっている。早く終わるその分、あなたの前に立てる回数が増えるのだから最高だ。
 アートワークをお願いしたのはKASSAIさん。KASSAIさんは、メジャー前の我々の初流通盤のジャケットを手がけてくれた人である。これからは自分たちでやっていきたいと思っている旨、そしてこの門出のタイミングで是非とも一緒にやらせて頂きたいですという気持ちを伝えさせて頂いたら、快く引き受けてくれたのだ。
 最後はCDのプレスである。プレスはライブハウスeggmanの事務所にお願いした。現マネージャー、そしてNOiDレーベル代表である永井ゆーまと出会ったきっかけである。厳密に言えば面識はあったのだが、まさかレーベルを立ち上げてまで一緒にやろうゼなんてことになるなんてのは露にも思っていなかった。完全同世代、何も知らない若人たちが手を組んで日本武道館、そしてドラマの主題歌をやらせていただけるなんて、本当に奇跡のような話である。ただ、この話はもう少し後で。我々は二枚のアルバムを自主盤としてリリースした後に、NOiDレーベルと手を組んでCDを出すことになる。

 帯を一つ付けるのにもお金が掛かり、ブックレットが一頁増えただけで値段が随分と変わり、CDを開けるとき、フィルムのきっかけを探してペリリと一周剥がすあの包装を”キャラメル包装”と呼ぶことを知り、それにも特別な料金が発生することを知った。当たり前にあったものの価値を身を以て知ることができた。

 こうして、会場限定シングルを経て”未来の始めかた”という盤を流通をかけてリリース。今でも全国のレコード屋さんに我々のCDが並んでいるこの現状には、流通会社の方と、レコード屋さん、そしてそれ以外にもたくさんの方のお力添えがあって叶っている。慈善事業ではない為、発生する金銭には責任感も持てるし、持ってもらえる。顔を見て、声を聴いて直接話をすることが出来るということはそういうことだと思う。すなわち仕事として関われるその部分は、後に一緒に歓ぶことができる糊代だと、そう思っている。  ”未来の始めかた”がお店に並んだあの景色は、メジャーで全国流通をかけて出した盤よりも何倍も何十倍もリアルであった。それは関わってくれた人の顔が、経緯ごとに浮かんでくるからだ。今と相違なく、とても嬉しかったのを覚えている。

 さて、次はNOiDレーベルに所属した後のお話かな。この辺りから我々の活動を知ってくれているあなたも、再度、おさらいという意味で。そしてSUPER BEAVERをドラマを機に知ってくださったあなたには、更に知ってくれたら嬉しいなアと思うので。来週に続かせて頂きます。


 追記。
 メジャーからインディーズに戻り心掛けたことの一つ。
 作品を、活動を、意志を、あの頃より絶対に劣らせないこと。
 たくさんの方のお力添えに大感謝です。



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「音楽も、業務もやって手いっぱいになるくらいなら、お前らは音楽だけをやれ。業務は任せろ」 
 正確なセリフではないかもしれないが、このような言葉をかけてくれたのが、我々現マネージャー、永井である。今思い起こしても、なんとも頼り甲斐のある言葉だと思う。
 ただ、このような言葉をかけてくれた永井はライブハウスのブッキングを担当している人間であり、要するに事務所を機能させたり、マネージメントをすることに関してはズブの素人であったのだ。今思い起こしても、なんとも頼り甲斐のない立場だと思う。
 しかし、我々は面白そうなことができそうだと感じられれば手を組むし、我々の音楽が真ん中にあって、人間としてその人のことが好きだと思えたなら手を組むことにしている。だからやってみることにした。決め手となったのは彼の心意気、ただそれだけである。
 メジャーから落っこちたバンドと、マネージメントをしたことのない男が手を組んで、一体何ができるのであろう。かなり危うい。どちらの立場であってもその相手はやめておけと、言うだろう。
 しかし、誰かがやってきたことも、初めは誰もやったことがなかったことなのだ。当たり前のことであるが、誰かが始めて前例となりうる。やけっぱちになっていたわけではない、ただやるなら面白くなければ意味がないとすら、我々は思っていた。やるなら互いにゼロから、更地から自らが手をかけたほうがきっと、実りの歓びも大かろうと、そう言うこと。

 [NOiD]は永井がブッカーとして企画していたイベント名。そのままレーベルの名前となった。

 何もお給料が出るわけでもないし、状況が激変するわけではないが、窓口があると言うのはかなりありがたかった。マネージメントは初めての永井ではあるが、彼が所属しているのは株式会社eggmanというしっかりとした会社だ。しっかり管理されているという体裁は、立派な抑止力となる。
 無所属のバンドが単体で動いていると、稀に良くない人が寄ってきたりするものだ。何があったのか具体的には記さないが、[NOiD]と手を組んだ時、我々は200万円近くの借金を抱えていた。オーマイガーである。完済するのにはアルバム2枚分、約二年の歳月を要した。[NOiD]に所属して1枚目のアルバムが2014年。次のアルバムをリリースしたのが翌年な訳だから、我々は三年前にようやく借金を返済して、アルバイトをしなくても生活できるようになってきたわけである。本当に、つい最近の話だ。

 単独公演の会場は[NOiD]に所属してから、下北沢251、渋谷CLUB QUATTRO、恵比寿リキッドルーム、赤坂BLITZ、Zepp Divercity、日比谷野外音楽堂、Zepp TOKYO(二日間)、日本武道館、と徐々に大きくなっていった。
 わかりやすく表記すると、250人、700人、900人、1,200人、2,500人、3,000人、2,700人×2、10,000人だ。
 ありがたいことに新進気鋭や、破竹の勢いなど言ってくれる人がたくさんいたが、どう考えても新進気鋭には該当しないし、これを破竹の勢いと呼んでくれるのならばかなり長い竹を想像してくれると嬉しい。個人的には経歴無関係の若手筆頭、いつでも噛み付けるルーキーの心持ちでいるので大歓迎である。実際、大好きな先輩たちがたくさんいてくれるので、本質的にまだまだその位置にいるのだが。

 前期させていただいた会場を一つずつソールドアウトさせて行く過程には、柳沢が入院したり、愛しきSUPER BEAVER号が廃車になったり、藤原が新しい帽子を買ったり、私がオールナイトニッポンのパーソナリティになったり、私が入院したりと、お話したいことがまだまだあるのだが、ここで記するにはボリュームがオーバーな気がしないでもないので泣く泣く割愛。波乱万丈、紆余曲折、話題にはこと欠かないバンドではあるので、また別の機会にゆっくり語れたらと思う。

 さア、ドラマはいよいよ来週で最終回。我々の活動はこの先も続いてゆくが、ここで歴史を語るのは最後になりそうだ。
 ”僕らは奇跡でできている”。この素敵なドラマに携わらせて頂けた経緯など、少し話せたら嬉しいなと思っている。
 ”僕らは軌跡でできている”と題した我々の長きに渡った自己紹介、いよいよ最終回へ。



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〜感謝と、意志と、スタンスと〜

 降って湧いたような話であれば、その根源がわかった上でないとうまく感情が動かない。事には必ず”起こり”があって、いつ、どんな経緯で、誰が、がとても重要だと思っている。それが嬉しい話や楽しい話であれば、尚更だ。発信者として知らなくてもいい事、知らない方がいい事があることも理解はしているつもりなので、それを除いた事に関しての話ではあるが、不透明な部分はできるだけ排除していきたいと私は思うのだ。
 今回、”僕らは奇跡でできている”というドラマの主題歌を担当させて頂けた事に関して、不透明な部分は、ほとんどと言っていい程なかった。それは、以前からお付き合いをさせていただいていた方々がプレゼントしてくれたお話であったと言うこと、そしてその方々が予てから言ってくれていた「ああなったらいいね」「こうできたらいいね」の話であったからだ。本当に嬉しいなアと、心から思えた。

 元々メジャーに所属していたことから、情や、個人の感情だけで、簡単に進んだり決まったりする話ではないというのは承知していた。殊更こんな風に特別大きな話に付随して切っても切れない政治やお金が存在することも知っていたし、具体的な数字や関係性も、もちろん全てではないが知っていた。その中で、マスメディアにインディーズという形態で接触することがどれだけ難しいことであるのか痛感している我々が頂けたこの話、「ありがとうございます」のその次に、「やったー」よりまず「すげエ」が出てしまったのは言うまでもなかった。ちなみにこの「すげエ」は我々が、ではなくこの嬉しすぎるお話が、でもなく、それを実現させたドラマの制作チームが、である。
 無理も、無茶も、あったと思う。それを通したのだ。大きなお金と多大な時間も発生することだ、慈善事業では決してない。だから、おそらく幾度も様々な場面でトライしてくれたのだと思う。その心持ちが本当に嬉しかったし、その原動力に、SUPER BEAVERの音楽が好きだ、という有り難い気持ちがあったこと、それが何より嬉しかった。
 情や、個人の感情だけで簡単に進まない話を、情や、個人の感情を根本に実現させてしまうオトナが存在してくれているということ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、その事実だけで希望だと思った。
 音楽をやる上で、たくさんの人に届くかもしれないということは大きなロマンだ。大きな会場でオンステージしたいという気持ちも全くそれと同じなのだが、別の道を歩んで、別の景色を見て、別のことを考えて、別の心を持っているそれぞれの人生が、代わりのきかない一つの地点でクロスオーバーするということは物凄く素敵なことだと思っているし、その数が多ければ多いほどワクワクする。交わるということは、たった一人で生きている人間にとって最も大事なことだ。だからこそ我々の音楽がそのきっかけになるのなら、それ以上のロマンはないと思う。根源も経緯も顔もしっかりわかる、主題歌をやらせていただいたけた今回の機会で、一体どれだけの人に届いたのだろうか、どれだけのきっかけを作れたのだろうか。

 我々はアンチメジャーでもなければ、アンチバビロンとも違う。自分が楽しいと思うことが、あなたが楽しいと思ってくれることが好きなのだ。それをたくさんやれそうだと思ったのが今のインディーズという形態であっただけで、そもそも形態に固執しているわけではない。今回のこの嬉しいお話は、今の自分たちの状況だからこそ感じられたスペシャルだと思っているし、しっかり意志を伴って地に足さえつけていられれば、状況も形態もまるで関係がないとも改めて思わせてくれた。
 これからもまだまだ続いていく我々の物語の中で、目次に乗っかるような、大切な出来事になりました。

 改めて。
 ”僕らは奇跡でできている”制作チームの皆様、キャストの皆様、携わってくれた全ての皆様、そして私が言うのは少し違うとも思うのだが、ドラマを見てくれた皆様に大感謝です。本当にありがとうございました。
 そして、ドラマにかこつけて勝手に披露し始めた我々の歩み”僕らは軌跡でできている”を読んでくれたあなたに大感謝。楽しいことはあなたと共にできるように、これからも前のめりで精進して参りますので、何卒よろしく。


 SUPER BEAVER フロントマン 渋谷龍太